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1 番〜 10 番を表示 (全 35 枚)(1) 2 3 4 »


国指定史跡 段の塚穴

 [47] 国指定史跡 段の塚穴高ヒット
投稿者webmasterwebmaster さんの画像をもっと!   カテゴリー古墳時代    前回更新2010-6-9 13:37    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数53574  コメント数43    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
古墳時代末期の横穴式石室を主体とする円墳で大きい方を「太鼓塚」小さい方を「棚塚」といいます。

写真は「太鼓塚」の入り口です。
緯度 : 34.06004371 / 経度 : 134.07577783 / ズーム : 16

 


徳島城 外堀 数寄屋橋

 [46] 徳島城 外堀 数寄屋橋高ヒット
投稿者ゲスト   カテゴリー江戸時代    前回更新2010-6-9 13:18    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数881  コメント数7    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
 徳島城の外堀にかかっている数寄屋橋の写真です。
緯度 : 34.07403721 / 経度 : 134.55698222 / ズーム : 18

 


松前城

 [11] 松前城高ヒット
投稿者webmasterwebmaster さんの画像をもっと!   カテゴリー江戸時代    前回更新2010-5-12 11:33    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数748  コメント数2    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松前城天守
通称 福山城
城郭構造 平山城
天守構造 独立式層塔型3重3階
現在:外観復元(鉄筋コンクリート構造)
築城主 松前崇広
築城年 慶長11年(1606年)
主な改修者 松前氏
主な城主 松前氏
廃城年 1875年
遺構 本丸御門、御殿玄関、石垣、土塁

指定文化財 国の重要文化財(本丸御門)
国史跡
北海道有形文化財(御殿玄関)
再建造物 天守

 松前城(まつまえじょう)は北海道渡島支庁管内松前町にある平山城で、福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。

石田城と並び日本における最後期の旧式城郭である。戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)と攻防を繰り広げ、落城させられたことでも有名である。旧城内一帯が国の史跡に指定されており、また、築城時から現存する本丸御門が国の重要文化財に指定されている。2001年には北海道遺産(「福山城と寺町」)に選定された。


この作品の著作者である私は、この作品をパブリックドメインで提供し著作権を放棄します。これは全世界で適用されます。
パブリックドメインの適用が法的に不可能な場合:
私は法令によって要求される条件以外のいかなる条件もつけず、あらゆる人に対していかなる目的でもこの作品を利用する権利を認めます。
緯度 : 41.42988360 / 経度 : 140.10834600 / ズーム : 14

 


弁天台場跡‎

 [12] 弁天台場跡‎高ヒット
投稿者webmasterwebmaster さんの画像をもっと!   カテゴリー幕末    前回更新2010-5-12 11:30    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数961  コメント数11    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
弁天台場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

弁天台場弁天台場(べんてんだいば)は、幕末に北海道函館市に設営された台場。弁天岬台場、弁天砲台とも。設計者は武田斐三郎。

概要
 周囲390間余(約710m)、不等辺六角形で、上から見ると将棋の駒のような形をしていた。総面積は11,611坪(約383,000m²)、 高さ37尺(約11.2m)の石垣をもつ土塁2,350尺(約780m)で囲まれていた。東南端にはトンネル式通路のアーチ型入口を構えていた。砲眼15門(60斤砲2、24斤砲13門)を装備し、その中にはプチャーチン搭乗のロシア艦ディアナ号のものもあったといわれている。土石は主に函館山より切り出し、大手門などの重要な部分には、大坂から運んだ備前御影石を用いたといわれる。工事は松川弁之助が請け負い、翌年から井上喜三郎がこれを引き継いだ。


歴史
江戸幕府が安政3年(1856)から文久3年(1863)にかけて、外国船襲来に備えて箱館湾沖に建設した。

しかし実際に使用されたのは箱館戦争という内戦においてだった。箱館戦争終盤の箱館湾海戦において、新選組が中心となった旧幕府軍はこの台場にたてこもり奮闘したが、箱館市内が新政府軍によって占領され孤立。明治2年(1869)5月15日、本陣五稜郭に先立って弁天台場は新政府軍に降伏した。

明治30年頃に取り壊され、現在は函館どつく入口前に碑が建つのみとなっている。なお使われていた石材は函館漁港の護岸に使用されている。



日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。または、(2)1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)され且つ起算日から10年以内に公表されなかったものである。これらの二つのいずれかであるため、日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により著作権の保護期間が満了しています。これは全世界に適用されます。

(根拠: 法文) 旧著作権法 (明治32年3月4日法律第39号、最終改正昭和44年法律第82号)

1899年(明治32年)7月15日施行、1971年(昭和46年)1月1日廃止
第二十三条【保護期間−写真著作物】
1.写真著作権ハ十年間継続ス
2.前項ノ期間ハ其ノ著作物ヲ始メテ発行シタル年ノ翌年ヨリ起算ス若シ発行セサルトキハ種版ヲ製作シタル年ノ翌年ヨリ起算ス
3.写真術ニ依リ適法ニ美術上ノ著作物ヲ複製シタル者ハ原著作物ノ著作権ト同一ノ期間内本法ノ保護ヲ享有ス但シ当事者間ニ契約アルトキハ其ノ契約ノ制限ニ従フ
第五十二条
3. 第二十三条第一項中十年トアルハ当分ノ間十三年トス
緯度 : 41.77301201 / 経度 : 140.70413590 / ズーム : 16

 


三内丸山遺跡

 [45] 三内丸山遺跡高ヒット
投稿者ゲスト   カテゴリー縄文時代    前回更新2010-5-9 21:15    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数723  コメント数2    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
ホームページアドレス
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/index.html
緯度 : 40.80859700 / 経度 : 140.69711300 / ズーム : 13

 


太秦映画村 華の花魁道中

 [43] 太秦映画村 華の花魁道中高ヒット
投稿者webmasterwebmaster さんの画像をもっと!   カテゴリー江戸時代    前回更新2010-1-7 22:17    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数1322  コメント数3    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
去年の春に太秦映画村で撮したものです。
緯度 : 35.01627940 / 経度 : 135.70860390 / ズーム : 18

 


テスト

 [42] テスト高ヒット
投稿者ゲスト   カテゴリー平成    前回更新2010-1-6 22:57    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数1929  コメント数4    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
テスト

 


大坂城

 [41] 大坂城高ヒット
投稿者ゲスト   カテゴリー戦国時代    前回更新2010-1-6 22:25    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数1888  コメント数4    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大坂城(大阪城、おおさかじょう)は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったため、「大阪城」と表記することがある。


写真は
列島宝物館より
緯度 : 34.68649440 / 経度 : 135.52619650 / ズーム : 13

 


本能寺

 [13] 本能寺高ヒット
投稿者ゲスト   カテゴリー戦国時代    前回更新2010-1-6 20:39    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数827  コメント数9    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の寺院。本尊は、日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の曼荼羅である。織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる。塔頭が七院ある(恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、雲龍院)。

歴史
本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年(応永22年)、京都油小路高辻と五条坊門の間[1]に、日隆によって創建されたものである。日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。

1429年(永享元年)、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年(永享5年)、如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。その後、本能寺は日蓮の本義である「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方4町(約4万m²)の敷地を有し、また多くの子院も有していた。 応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、本能寺は、その本山として繁栄した。

1536年(天文5年)、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。


日承上人・本能寺の変
その後、1547年(天文16年)-1548年(天文17年)の頃帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺し「第8世」を称し、四条西洞院・油小路・小角・錦小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。

日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。

本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き(いわゆる本能寺の変)、その際、堂宇を焼失した。



信長廟
現在の場所への移転とその後 [編集]
1587年(天正15年)豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転された。伽藍の再建は1592年(天正20年)。現在の御池通りと京都市役所を含む広大な敷地であった。

江戸時代初期の1615年(元和元年)に江戸幕府から朱印寺領40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、江戸時代には末寺92を数える大寺院になっていた。

1788年(天明8年1月)の天明の大火、1864年(元治元年7月)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。


本能寺跡
旧地の発掘調査
旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、1992年に廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっている。

2007年のマンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかっている。 発掘調査の結果、当初は120m四方の敷地があったと考えられていたが、築地や石垣や水堀が約40m以上さきからは確認されていない。そのため日本中世史の研究家今谷明は、信長の利用した本能寺の「建物は最大40メートル四方クラス」(外部サイト参照)の小さな施設であったと結論付けている[2]。


逸話 右の写真のとおり、本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている[3]。

写真: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 錦絵 本能寺焼討之図
緯度 : 35.01032810 / 経度 : 135.76828490 / ズーム : 16

 


勝坂遺跡

 [35] 勝坂遺跡高ヒット
投稿者webmasterwebmaster さんの画像をもっと!   カテゴリー縄文時代    前回更新2010-1-5 19:29    友人に知らせる友人に知らせる
ヒット数662  コメント数2    0.00 (投票数 0)0.00 (投票数 0)投票する投票する
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緯度 : 35.50775385 / 経度 : 139.38872695 / ズーム : 15

 


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